2017-06-18 22:30:00

村上春樹「雑文集」

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村上春樹の「雑文集」を読みました。


ネタバレのような感覚です。

小説家の仕事は仮説を提示することで、そこではなるべく判断を下さず、それは読者に委ねなければならないと書かれています。村上春樹の小説は読むたびに感想が異なる印象だったのですが、確かに、そういう書き方をすればそうなりますね。よくある「何が言いたいのかわからない」という感想も、そもそも作者は何も言わないように心掛けているわけです。


レコードには音楽を所有しているという感覚がある。そういう意味では CD はよくない。物理的な重みもそれほどないし、A面とB面をひっくり返す楽しみもない。音楽にはそれにふさわしい容れ物があるのだ。…という話が出てきます。

もちろんレコードが最高だとは思わない(技術的制約によって決定付けられた規格が我々の「感覚」にとってたまたまベストである確率はきわめて低い)とは思うけれど、しかし Spotify や Naxos Music Library などでほぼ無限の音楽にアクセスしていると、音楽とはこういう存在であるべきなのかどうかは疑問に思います。高校の頃に買った CD の方がやはり思い入れはあって、そして思い入れは主観的な価値に大きく影響するわけです。

ソニーではオーディオ技術開発部に所属していて、音楽のあるべき姿とは何か、よく議論になりました。もはや音質の向上は重要ではない。そのとき、人々の音楽体験の向上に大きく寄与する要素は何か? そのひとつとして所有があるわけです。その観点では、不便で限定されていることが価値になり得るんですよね。


グレン・グールドによれば、音楽の本質は楽譜の中にあり、ピアニストはそれを翻訳するだけの存在なのだそうです。この解釈では、録音やオーディオ装置も翻訳としての役割を果たすことになります。

これは面白い見方だと思います。ほとんどの場合は、作曲家が想定する音が存在し、その投影として楽譜があるものと考えます。楽譜が本質で音はおまけだとはならないはずです。

この考え方なら、グールドがモーツァルトの作品をあんなに改変して演奏するのも理解しやすいですね。翻訳家は作品に注を加えたり一部を削ったりすることがあるし、演奏家にもそれは許されるはずだ、ということなんですね。


「にしんの話」に英語でニシンは herring という、という話が出てきました。もしこれを先に読んでいれば、僕は昨年の北欧旅行で「herring ってなんだろうね? このランチセットください」と不用意に注文することはなく、山盛りのニシンの皿と格闘せずに済んでいたはず。

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